クリムトが描き出す「愛」の表現
クリムトの生い立ちと作風の関係
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クリムトの絵はモデルや描かれた時の知識を仕入れてからの方が感動します クリムトといえば、帝政オーストリアを代表する芸術家の一人として名前をあげられるほど有名です。 彼が生まれたのは、1862年の7月14日のウイーン郊外、バウムガルテンでした。 ボヘミア出身の彫刻師を父に持ち、地元のウイーンっ子であった母から生まれた彼は、7人兄弟の2番目として育てられました。 彫刻師であった父の影響か、博物館付属の工芸学校に入学し石膏像のデッサンや古典作品を模写するといった古典主義的な教育を受けるのです。 彼の弟たちも、あとを追うようにして入学し彫刻師や彫金師となって、後にクリムトの作品を飾る額縁の制作に携わっています。 学校を卒業すると、兄弟で芸術家商会を設立し劇場装飾を中心とした仕事をし、繁盛するのでした。 |
ウィーン大学講堂の天井画
装飾家としての仕事は順調で、高い評価を受けますが1892年には父と商会を一緒に設立した弟の一人が死亡するのです。 しかし、仕事ではウイーン大学講堂の天井画を依頼されたりと好調ではありましたが、この天井画は大学関係者に大論争を巻き起こすほど問題視されたのです。 あまりの激論に驚いたクリムトは、契約を破棄し報酬を変換したほど世間を騒がせました。 3部作あった天井画は美術館や個人に売却されたのですが、ナチスに没収された上に、焼失の憂き目にあうのです。 この事件がきっかけとなって、保守的なウイーン美術家組合から分離するウイーン分離派が結成されたのでした。 初代会長には、クリムトがなっています。 このように、彼の生涯は万事において波乱万丈なのですが、恋愛という面においても普通とは言えませんでした。 1891年には、生涯にわたって愛していたとされる女性の肖像画をパステル画で描いています。 |
クリムトが絵画に表す「愛」の表現
彼は、満55歳という若さで亡くなるのですが、死ぬ間際に会いたがったのはただ一人の愛人だったのです。 27年間もの長い間を交際を続けながらも結婚することもなく、他にも多勢の愛人がいたとされます。 しかし、クリムトの最高傑作とされ世界中にファンを魅了してやまない有名な接吻は、彼の最大にして最高の愛情表現だとされています。 確かに、絶壁を背後にして抱き合って接吻しようとしている姿は壮絶な決意と愛情を感じさせずにはいられません。 この接吻に関しては、ポストカードとしてもポスターなどにも採用されることが多いので、絵画に興味がない人でも目にしたことが一度くらいはあるのではないでしょうか。 接吻を初めて見た時には、モデルがいるのか画家がどんな想いで描いたのかなどの感想は特になかったです。 しかし、そういった背景をしってしまうとどうにも切ない想いが伝わってくるのです。 |