クリムトの金箔を施したエキゾチックで豪華な女性の絵画の魅力
クリムトの作風
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金箔を施した豪華でエキゾチックな女性の絵画、どこか死や退廃的な雰囲気を持っていて、女性は恍惚としたうつろな表情をしている、そんな作品を多く描いたのが、オーストリアの作家 ダスタフ・クリムトです。 生誕150年を迎えた2012年、オーストリアのウィーンでは、晩年の彼のアトリエが修復され話題になりました。 ウィーン生まれのクリムトの作風は、当時のヨーロッパの雰囲気をよく表現しています。 世紀末芸術を呼ばれた新しい芸術運動が盛んになり、そのウィーンでの中心人物がクリムトだったからです。 1862年、ウィーン郊外のバウムガルテンに彫刻士の息子として生まれた彼は、14歳でウィーン博物館付属工芸美術学校に入学し、伝統的な美術の教育をうけました。 |
クリムトの経歴
卒業後は、弟や友人と建物や室内を装飾する工房を開き人気を博して、30歳の頃にモーツアルトが「フィガロの結婚」を初演したことでも有名なブルグ劇場の天井画の装飾を依頼され、これが本格的な彼の画家人生のスタートとなりました。 この天井画で皇帝からを褒章したクリムトは、ウィーン大学大聖堂の天井画も依頼されます。 ここで描いた絵画には、クリムトが当時交流していた新しい芸術を支持する仲間たちの影響が濃く表現されていたため、批判を浴びて途中で続けることが出来なくなってしまいました。 これは「哲学」「医学」「法学」をテーマにしたものだったと言われていますが、残念ながら下絵とともに第二次大戦で焼失し、現在は見ることができません。しかしこの批判を浴びた出来事きっかけに、彼は伝統的な芸術学派から抜け出し「ウィーン分離派」を設立、芸術仲間たちと集まって、世紀末芸術やアールヌーボー、ユーゲントシュティールなどと言われる時代の作品を発表していきました。 |
クリムトの装飾に対するこだわり
彼は父親が彫刻士、弟が彫金師、そして自身も装飾家でもあったことから、絵画にも構図や模様、そして金箔を多用した作風にも特徴がみられます。 さらに日本の琳派、浮世絵などの影響も見られます。 実際に彼のアトリエには、日本の武将の甲冑や浮世絵が飾られていたと言い、2012年に復元されたアトリエにも、それは再現されています。 額縁にもこだわりが見え、それも彼の環境から来るものだったのかもしれません。 また、彼は大変な女性好きとしても知られていて、彼のアトリエには多くの女性が出入りしていたと言われています。 彼はいつもマントのような長いゆったりとした服をまとい、女性に囲まれて、社交界の話題をさらった人物でもありました。 女性が大変美しく描かれている彼の絵画からも、彼の女性に対するこだわりがわかります。 |