作風を常に変え続けたダリの絵画
サルバドール・ダリを良く知ってから作品を見ると違うものが見える
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絵に興味がない人でも、日本においては多くの人がダリのデザインを目にする機会があったのです。 それは、スペインで生産された棒付きキャンディのロゴデザインを引き受けたのが有名な画家であったダリ本人だからです。 この有名な棒付きキャンディは、1977年からは日本でも販売されるに至り、多くの人の目に触れることになった次第です。 1904年にスペインのカタルーニャ地方で、裕福な家庭に生まれました。 しかし、幼くして死んだ兄の名前であるサルバドールと名付けられるといったことが、後々に彼に大きく影響を与えたのです。 少年時代から絵画に興味を持ち、すでに才能の片鱗を大人達に認められていた彼は、マドリードにあった美術学校へと入学します。 そこで、才能溢れる人達と知り合い、絵画だけではなく映画といったジャンルへも挑戦することになるのです。 |
常に変化を続けるダリの絵画
学生時代には、印象派やキュビスムなどの影響も受けるのですが、シュルレアリスムへの道を見つけたのでした。 ダリは、自分の制作方法を偏執狂的批判方法と称しています。 具体的には、写実的描法を用いながら、いくつものイメージを重ねたり駆使することにより、夢のような風景画を描きだすのです。 彼の作風は常に変化し、いつも新鮮な驚きで魅了してくれます。 1931年に描かれた記憶の固執というタイトルを持った絵も、魅力的です。 これは溶けたチーズをヒントにしたもので、数個の溶けた時計がモチーフとなっています。 世間的なイメージの彼は奇矯な行動をとる芸術家として知られており、一部の芸術家達にはその奇矯な行動自体がマスコミでの人気取りであると言われておりました。 確かに、一人では地下鉄の乗り方と降り方を知らずに、一緒だった友人とはぐれてしまったために泣きだしてしまったりといったエピソードなどもあります。 他にも紙と鉛筆を買いに魚屋に走ったことなどもあることを、著書で述べている部分などもみられるのですが、実際の彼はどちらかというと繊細で気配りの行き届いた常識人だとする説もあるのです。 |
愛妻ダリの大きな存在感
1982年に、ダリのミューズでありマネージャー的な役割を担っていた愛妻のガラが死去しました。 このことにより、彼は城に引きこもり絵画制作をやめてしまうのです。 彼の人生は、生い立ちからして死んだ兄と同じ名前がつけられるといったように、普通とは言えない生涯です。 波乱万丈の多かった人生のそれぞれのエピソードは彼の作品に、それぞれに影響を与えたはずです。 そうした事実を知って、改めて見るとさっきまで眺めていたのと違う作品に見えてくるから不思議です。 私は天才を自覚しているといった、天才を自称する言葉を憚らなかったのがダリです。 他にも、数々の名言を残しているので是非知ってから絵を見てください。 |