絵画販売人気作家 天才ゴッホの有名作品と生い立ち
遅咲きの天才・ゴッホの作品と生い立ち
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不遇の天才画家として知られるフィンセント・ゴッホは、1853年オランダで牧師一家の長男として誕生しました。 小学校を卒業すると北ブラバンドの寄宿学校で語学を学びました。 その後、ティルブルフの中学校に進学しますが15歳で突然中退していまいました。 その理由ははっきりしていません。 最初にゴッホと美術をつないだものは、1869年16歳で伯父の紹介で画商グーピル商会の店員として働いたことかもしれません。 生涯を通じて唯一の理解者であった4歳違いの弟テオも、1873年からグーピル商会で働き始め、しばしば文通をするようになりました。 ゴッホは、ハーグを皮切りにロンドンやパリに転勤をして様々な人と出会います。 しかし職場での人間関係は上手くいかず、その上失恋を経験したショックなどから仕事に対する意欲を欠き、1875年12月に無断で実家に帰ったことにより翌月解雇されてしまいます。 |
ゴッホの名画「ひまわり」「アルルの跳ね橋」
語学教師をしたり、宗教活動をしたり、彼は興味の赴くまま生活を続けますが挫折を繰り返します。 1880年7月、26歳でテオとの文通を再開すると突然画家になることを宣言し、独学で猛勉強を始めます。 これから先の生涯は、弟テオの援助に頼る生活となっていきますが、生前、ゴッホの絵が評価されることはなく、売れたのはたった一枚しかありませんでした。 度重なる女性問題や金の無心でテオを苦しめる事になりました。 1888年、フランス・アルルに移り1年3ヶ月過ごします。 その間に「ひまわり」「アルルの跳ね橋」などの名作を描きました。 この地で芸術家との共同生活を夢見たゴッホですが、ゴーギャンとの生活はわずか2ヶ月ほどしか続きませんでした。 |
天才ゴッホの最期
喧嘩の果て激高した彼は、自分の耳の一部を切り取ります。 その常軌を逸した行動から、彼は精神病院へ入院することになります。 病気療養中も「アイリス」「星月夜」などを描き、絵画への情熱を忘れなかった彼ですが、入院中に弟テオが結婚したことを知ると、精神的に不安定になり発作を繰り返します。 退院し、テオの妻ヨーに会ったり、テオ夫妻の子どもの誕生を祝う手紙を書くなど、正常な行動もあったものの病状は一向に良くならず発作をを恐れる日々が続きました。 1890年7月、下宿先に銃弾による大けがを負って帰って来た彼は、テオに看取られ37歳の生涯を閉じました。 その死には、今も自殺説やテオによる殺人説など謎が残されています。 生前は、画家として評価されなかった不遇の天才ですが、死のわずか数年で命を削るように描かれた激しい作風は、今も人々を引きつけて止みません。 |